【哲学】「私」はいつ生まれ、いつ死ぬのか。

Diary

本ブログは台湾情報日本語教育をメインに運営しているのですが(たまに副業関係)、たまには息抜きということで、久しぶりに哲学してみようと思います。

よければ最後までお付き合いください。

テーマは「『私』の誕生と死」です。



まぎれもないこの「私」

あなたに名前がなかったとしても、「あなた自身」は存在します。

痩せ気味で、お酒が好きで、ちょっと頑固で日本人のあなたです。

友達や家族があなたのことをシリアル番号で呼んだとしても、あなた自身は存在します

もはや名前は何だってOKです。
「あ」でも「い」でも「D76FF-11号」でもいいのです。

この名前に関係なく存在しているのは「私」という意識です。

他の誰でもなく、まぎれもない「私」です。

自分にしか感じることのできない「私」です。

 

この「私」という意識はどのようにして誕生するのでしょうか。

この世に生まれ落ちたときから、「私」は存在したのでしょうか。

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「私」= 世界

この世に生まれた時、「私」はまだ誕生していません。
この世に生まれた時、赤ちゃんと世界はそれぞれ分離されていない1つの統合体だと言えます。

ここは理解が難しいところかもしれませんが、「私=世界」の状態です。
「私」は世界の一部であり、世界もまた「私」の一部です。

目に映る机や椅子といった存在物も一切区別されていない状態です。

我々が机の上に置かれている本を見るとき、見る者(私)見られるモノ(本)といった認識主体認識対象の関係が成り立っています。この関係が成り立つのは「私」がすでに誕生しているからです。

この世に生まれたばかりの時、「私」はまだ誕生していないので上記のような関係は成立せず、「私=本」の状態があるだけです。

顔の向きを変えれば別の景色が見えますが、それもまた自身の別の在り方です。

つまり体を動かすたびに別の景色が見え、そのそれぞれが1つの世界であり、このとき世界は無数に存在していることになります。

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「私」の誕生

それではこの「私」=世界の状態からどのように「私」が生まれるのでしょうか。
結論から言うと、「私」という意識は「私以外のモノ」との差異によって生まれてきます。

赤ちゃんは、生活の中で目に映っているモノが自分自身でコントロールできないことに気づいていきます。

自分の手や足は自分自身でコントロールして動かすことが出来るのに、目に映っている机や椅子を浮かび上がらせることや、目の前にいる女性(母親)にミルクを持って来させることが出来ないことに気づいていきます。

コントロールできるモノとできないモノが明確になっていきます。
ここに差異が生まれます。

このようにして、徐々に統合体であった赤ちゃんと世界が切り離されていきます

これが進むと、世界の中のあらゆる物もそれぞれが個別の存在物であるという認識が生まれてきます。ここでは言語によるカテゴリー化(名前と呼んでもいい)が強力な手段として使用されます。

名前を与えるということは、そのモノを他のモノと区別するということです。
スペイン語では蝶と蛾を区別しないことや、アイヌ語には「雪」を表す言葉がたくさんあるように、生活様式に応じて区別するべきか否かが決まります。
命名という行為は命名対象に独自の価値を感じていることが前提となっています。

「私」と世界の分離がさらに進むと、世界からの差異として生まれた「私」が唯一無二の存在として自覚され始めます。
これが「私」という意識の誕生です。

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「私」は死なない!?

このようにして生まれた「私」ですが、今度はどのようにして滅んでいくのでしょうか。

結論から言うと、「私」が死ぬことはありません

なぜなら、死とは常に第三者に訪れるものだからです。

ドラゴンボールで生き返る

日本にはおもしろいアニメがたくさんありますが、最終的にやっぱり落ち着くのはドラゴンボールですよね。(個人的な意見)

ここからは賛否両論のあった「ドラゴンボール超」の最終回を題材とします。

最終回では、悟空とフリーザの共闘で宇宙最強のジレンを倒し、作画も素晴らしく感動した人も多かったようです。さらに、最後に映った悟空とベジータの戦闘シーンは、一番最初にベジータが地球にやってきた時を思わせるファイティングポーズで、ドラゴンボールファンを楽しませてくれる演出だったと思います。

第7宇宙が優勝して18号がみんなを生き返らせるように願った結果、無事全ての宇宙が復活した訳なんですが、ふと疑問に思ったことがあります。

生き返った者は自分が生き返ったことに気づけるのかということ。

別の問い方をすると、死んだ者は自分が死んだということを自覚できるのかということ。

死ぬことを意識が途絶えることと定義すると、自分が死んだことを自覚することは論理的には不可能なはずですね。

自分の身体が弱ってきているのを感じて、そこから死は近いということを予測することはできるでしょう。ですが結局は予測に留まっているため、自分の死を自覚することはできません。

自覚するということは、自覚する対象を俯瞰的に捉えるということなので、メタ的な視点がどうしても必要になります。このように考えると、「私」が死ぬことは絶対にないと言えるのではないでしょうか。

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死は怖いモノ?

どうして死が怖いのでしょうか。
恐怖というのは未知の物事に対して抱く感情なので、死に対する恐怖は何も特別なことはありません。

では一体、何が死を特別たらしめているのでしょうか。
繰り返しになりますが、死を経験するのは「私」ではなくて第三者です。

なぜなら第三者のみが死を対象として認識できるからです。

「私」には絶対に踏み入れられない領域こそが死なのです。

これが永遠の未知、つまり死が特別に怖いものとして考えられる理由です。

おわりに

いかがでしたか。
哲学的な思考に慣れていない人には少し難しかったかもしれません。

哲学と聞くと、高校時代に習ったプラトンやアリストテレスなどを思い出して、なんだか小難しい感じがしますがそんなことはありません。

哲学は僕たちの生活に根差しているもので、ある意味誰もが哲学者です。

哲学するのに知識や経験はほとんど必要になりません。
必要なのは、一切の当たり前を排除し、現象のありのままを見つめる直観力と探求心です。

僕は言葉にするのが下手なので、今回の説明もわかりにくかったかもしれません。
もし今回の話が少しでもおもしろいと感じたら、以下の本を読んでみてください。

語りえぬものを語る (講談社学術文庫)

哲学・航海日誌

著者の野矢茂樹先生は、僕たちの生活の中から哲学的な問題を発掘し、初心者にも分かりやすいように哲学的思考へ導いてくれます。

今回は以上です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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